「鹿(しか)の黄いろな横っ腹なんぞに、二三発お見舞(みまい)もうしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと倒(たお)れるだろうねえ。」 「お客さまがた、ここで髪(かみ)をきちんとして、それからはきもの 「ぼくらは両方兼ねてるから」 「これはどうも尤(もっと)もだ。僕もさっき玄関で、山のなかだとおもって見くびったんだよ」 「なかなかはやってるんだ。こんな山の中で。」 「早くいらっしゃい。親方がもうナフキンをかけて、ナイフをもって、舌なめずりして、お客さま方を待っていられます。」 早くあなたの頭に瓶(びん)の中の香水をよく振(ふ)りかけてください。」 もうこれだけです。どうかからだ中に、壺の中の塩をたくさん 二人は泣いて泣いて泣いて泣いて泣きました。 「旦那(だんな)あ、旦那あ、」と叫ぶものがあります。 「ぼくもおかしいとおもう。」 見ると、上着や靴(くつ)や財布(さいふ)やネクタイピンは、あっちの枝(えだ)にぶらさがったり、こっちの根もとにちらばったりしています。風がどうと吹(ふ)いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。 そして二人はその扉をあけようとしますと、上に黄いろな字でこう書いてありました。 『注文の多い料理店』(ちゅうもんのおおいりょうりてん)は、宮沢賢治の児童文学の短編集であり、またその中に収録された表題作の童話である。短編集としては賢治の生前に出版された唯一のものであり、童話としても『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などとともに賢治の代表作として知られる。, 短編集としての『注文の多い料理店』は、1924年(大正13年)12月1日、盛岡市の杜陵出版部と東京光原社を発売元として1000部が自費出版同然に出版された。発行人は、盛岡高等農林学校の1年後輩にあたる近森善一となっている。書名には「イーハトヴ童話」という副題がついている。岩手在住の図画教師だった菊池武雄が描いた挿絵が付された。定価が1円60銭と比較的高価だったためもあり、ほとんどが売れ残った(当時の映画入場料は30銭ほど)という。, これに、自らの創作姿勢と生き方について言及したと見られる『序』が添えられている。いずれも、末尾に年月日が付されており、それによるとこれらの作品は1921年から翌年の前半にかけて完成している。, 当時の広告文によれば、元々全12巻刊行する予定だった一連のイーハトヴ童話集のうちの1冊目として構想されていた。しかし思うように売れなかったことに加えて、作品の評判も芳しくなかったため、賢治はその後に構想を立てていた童話集の出版を取りやめてしまった。このため、賢治の生前に出版された彼の単行本は、同年に刊行された詩集『春と修羅』と本作品集の2冊のみである。また『春と修羅』と異なり、収録作品の原稿はほとんど現存しておらず、若干の下書稿と書き損じ断片が残る程度となっている。, 本書の出版は賢治のほか、発行人となっている近森、および近森の出版業を手伝っていた及川四郎(近森とは盛岡高等農林で同窓)の3人で進められた。近森は農業の実用書を刊行してある程度の成功を収めており、その利益をつぎ込む形で親交のあった賢治の童話を刊行しようという話になった。, 当初は1924年春に刊行を予定し、そのときの書名は『山男の四月』であった[注釈 1]。しかし、刊行が延期され、その間に収録作品と配列の確定、書名の変更があったことが残されたいくつかの資料(広告はがき、チラシ[注釈 2])からうかがい知れる。なお、『注文の多い料理店』という書名は及川が強く推したのに対し、他の2名は当初「飲食店を対象とした商業テキストと誤解されるのではないか」という理由でためらったと、及川は後に記している。この懸念は不幸にも的中することとなった。また、「東京光原社」という版元の名前は賢治の命名といわれる。この間、近森の資金繰りが悪化したことから、最終的に賢治は刊行された本のうち200部を自費で買い取っている。, しかし、上記の通り本は売れなかった。挿絵を描いた菊池武雄は、知人で『赤い鳥』の挿絵を描いていた画家の深沢省三の伝手で同誌に広告を掲載してもらったりもしたが、大勢に影響はなかった。なお、『赤い鳥』を主宰していた鈴木三重吉は賢治の作品を全く評価しなかったと伝えられている。及川は売れ残った本を、近所の子どもたちにかけっこをさせて順位に関係なく配ったりした[3]。, 盛岡の杜陵出版部(光原社)は及川が引き継ぎ、後に民芸品店に転業して「光原社」の名前で及川没後の現在も営業を行っている。及川は戦後、敷地に「宮澤賢治 イーハトーヴ童話 注文の多い料理店 出版の地」(原文ママ)と記した記念碑を建立し、現在も見ることができる[注釈 3]。また2006年4月より同社の敷地内に本書の刊行などに関する資料を展示した「マジエル館」が開設されている[5]。, 杜陵出版部(光原社)は1947年に『注文の多い料理店』B6版を復刻しているが、軍事色の強かった『烏の北斗七星』は全文が削除されていた[6]。そのほか3番目に収録されている童話『注文の多い料理店』は、日本の敗戦直後に行われたGHQの検閲で引っかかり、物語の冒頭の「すっかりイギリスの兵隊のかたちをして」という部分が削除されてしまったことが知られている[7]。, 童話『注文の多い料理店』は上述した同名の短編集の3作目に収められており、短編集の目次には「(1921.11.10)」という制作日の表記がある。森に狩猟にやってきたブルジョアの青年二人が、迷った先で一軒のレストラン「山猫軒」[注釈 4]を見つけ、入っていくという筋書きである。この作品には「糧に乏しい村のこどもらが都会文明と放恣な階級とに対する止むに止まれない反感です」という注が付いている[8]。, 清書用の原稿は現存していないが、前半部分における書き損じ断片が3点残っており、いずれも完成形と若干の相違点がある。, イギリス風の身なりで猟銃を構えた2人の青年紳士が山奥に狩猟にやってきたが、獲物を一つも得られないでいた。やがて山の空気はおどろおどろしさを増し、山の案内人が途中で姿を消し、連れていた猟犬が2匹とも恐ろしさに泡を吹いて死んでしまっても、彼らは「二千四百円の損害だ」、「二千八百円の損害だ」と、金銭的な損失だけを気にする。しかし、山の異様な雰囲気には気付いたらしく、宿へ戻ろうとするが、山には一層強い風が吹き、木々がざわめいて、帰り道を見つけることができない。途方に暮れたとき、青年たちは西洋風の一軒家を発見する。そこには「西洋料理店 山猫軒」と記されており、2人は安堵して店内へと入っていく。, 入ってみると、「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」という注意書きがあるのに気付く。これを2人は「はやっている料理店で、注文が多いために支度が手間取る」という風に解釈して扉を開けると、そこにはまた扉があり、「髪をとかして、履き物の泥を落とすこと」という旨の注意書きとともに、鏡とブラシが置かれていた。以後、扉を開けるごとに2人の前には注意書きが現れる。中には「金属製のものを全て外すこと」といった少し首をかしげる注意書きもあったが、「料理の中に電気を使用するものがあって危ないからだ」というように、2人はことごとく好意的に解釈して注意書きに従い、次々と扉を開けていく。, という注意書きが現れ、二人は顔を見合わせ、これまでの注意書きの意図を察する。これまで、衣服を脱がせ、金属製のものを外させ、頭からかけさせられた香水に酢のようなにおいがしたのは、全て2人を料理の素材として食べるための下準備であったのだ。「西洋料理店」とは、「来た客に西洋料理を食べさせる店」ではなく、「来た客を西洋料理として食ってしまう店」を意味していた。気付くと、戻る扉は開かず、前の扉からは目玉が二つ、鍵穴からこちらを見つめている。あまりの恐ろしさに二人は身体が震え、何も言えずに泣き出してしまう。すると、前の扉から誰かが呼ぼうとする声まで聞こえ、恐怖のあまり二人の顔は紙くずのようにくしゃくしゃになってしまう。, そのとき、後ろの扉を蹴破って、死んだはずの2匹の犬が現れ、先の扉に向かって突進していく。格闘するような物音が聞こえたあと、気付くと屋敷は跡形もなく消え、2人は寒風の中に服を失って立っているのに気付く。そこへ山の案内人が現れ、二人は宿へと、やがて東京へと帰っていったが、恐ろしさのあまりくしゃくしゃになった顔は、どうやっても元には戻らなかった。, これは近森が刊行した別の書籍(害虫駆除法を記した実用書)に挟まれていた図書注文振替用紙の裏面の広告で確認できる, ただし、『注文の多い料理店』が刊行された当時の杜陵出版部は盛岡市の別の場所にあり、現在の建立場所は厳密には「出版の地」とは異なる, 財団法人大阪国際児童文学館 『注文の多い料理店(宮沢賢治著 杜陵出版部、東京光原社 1924年)』, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=注文の多い料理店&oldid=78842733, 1958年『注文の多い料理店』(人形アニメーション) - 製作:学研人形部/人形操作:, 1993年『注文の多い料理店』(台詞無しのアニメーション) - 製作:桜映画社、エコー社/監督:. 風がどうと吹(ふ)いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。 「どうもおかしいぜ。」 二人の紳士は、ざわざわ鳴るすすきの中で、こんなことを云いました。 「喰(た)べたいもんだなあ」 「そいじゃ、これで切りあげよう。なあに戻りに、昨日(きのう)の宿屋で、山鳥を拾円(じゅうえん)も買って帰ればいい。」 と書いてありました。 「それあそうだ。見たまえ、東京の大きな料理屋だって大通りにはすくないだろう」 「これはぜんたいどういうんだ。」ひとりの紳士は顔をしかめました。 「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡(めがね)、財布(さいふ)、その他金物類、 「その、ぼ、ぼくらが、……うわあ。」がたがたがたがたふるえだして、もうものが言えませんでした。 その扉の向うのまっくらやみのなかで、 ふたりは泣き出しました。 「ぜんたい、ここらの山は怪(け)しからんね。鳥も獣(けもの)も一疋も居やがらん。なんでも構わないから、早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ。」 二人は大歓迎というので、もう大よろこびです。 「あたりまえさ。親分の書きようがまずいんだ。あすこへ、いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう、お気の毒でしたなんて、間抜(まぬ)けたことを書いたもんだ。」 「さあ、ぼくもちょうど寒くはなったし腹は空(す)いてきたし戻ろうとおもう。」 なるほど立派な青い瀬戸の塩壺は置いてありましたが、こんどというこんどは二人ともぎょっとしてお互にクリームをたくさん塗った顔を見合せました。 「いや、よほど偉いひとが始終来ているんだ。」 それから大急ぎで扉をあけますと、その裏側には、 「クリームをよく塗りましたか、耳にもよく塗りましたか、」 さあさあおなかにおはいりください。」 二人はあんまり心を痛めたために、顔がまるでくしゃくしゃの紙屑(かみくず)のようになり、お互にその顔を見合せ、ぶるぶるふるえ、声もなく泣きました。 それはだいぶの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちょっとまごついて、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。 「どうもそうらしい。」 二人はそこで、ひどくよろこんで言いました。 「壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください。」 ところがその香水は、どうも酢(す)のような匂(におい)がするのでした。 その時ふとうしろを見ますと、立派な一軒(いっけん)の西洋造りの家がありました。 「そうだろう。して見ると勘定(かんじょう)は帰りにここで払(はら)うのだろうか。」 「はいろうじゃないか。ぼくはもう何か喰べたくて倒れそうなんだ。」 そして猟師のもってきた団子(だんご)をたべ、途中(とちゅう)で十円だけ山鳥を買って東京に帰りました。 ところがどうも困ったことは、どっちへ行けば戻れるのか、いっこうに見当がつかなくなっていました。 「どうか帽子(ぼうし)と外套(がいとう)と靴をおとり下さい。」 「あるきたくないよ。ああ困ったなあ、何かたべたいなあ。」 「まちがえたんだ。下女が風邪(かぜ)でも引いてまちがえて入れたんだ。」 そこで二人は、きれいに髪をけずって、靴(くつ)の泥を落しました。 「なるほど、鉄砲を持ってものを食うという法はない。」 WILDCAT HOUSE の泥(どろ)を落してください。」 すこし行きますとまた扉(と)があって、その前に硝子(がらす)の壺(つぼ)が一つありました。扉には斯(こ)う書いてありました。 「ぼくもそうだ。もうあんまりあるきたくないな。」
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